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No.16793 ジョージ三世 スターリングシルバー オールドイングリッシュ パターン ティースプーン with 立ち姿 ライオン 紋章 SOLD
長さ 13.7cm、重さ 21g、ボール部分長さ 4.7cm、最大横幅 2.75cm、ボールの深さ 6mm、1796年 ロンドン、George Smith & William Fearn作、 SOLD

このスターリングシルバー ティースプーンは、今から220年ほど前の1796年作で、世界史で言えばフランス革命の頃にあたり、英吉利物屋の扱い品でもかなり古い品になります。

また、ティースプーン一本の重さとしては、かなり重たい21グラム、銀の質感も好印象なジョージアン シルバー アンティークと感じます。

21世紀の今日から振り返ると、1900年代の品でもなく、1800年代の品でもない、1796年に作られているのは、やはり飛び切り古いアンティークという気がします。 そして、博物館に飾られるようなアンティークシルバーはいざ知らず、私たちが収集していけるアンティークシルバーウェアとしては、その出現頻度には1780年辺りにボーダーラインがありますので、その意味でも写真の銀スプーンの古さは一級品といえましょう。

大きな時代の流れのなかで、このアンティークの位置づけについては、英国アンティーク情報欄にあります「37. アンティークと歴史経済の大循環について」をご覧になってください。

英国の歴史は比較的安定していたことが特徴で、隣国フランスのように大きな革命や動乱を経験せずに今日に至っており、そのおかげもあってイギリスにはアンティークのシルバーが多く残っているとも言えます。 しかし、この銀のスプーンが作られた時代は、イギリスにおいてもかなり世の中が荒れて、政治が混乱した時代でした。 

一つには産業革命の影響で英国社会に大きな変化が起こりつつあって、ロンドンでは打ち壊しのような民衆暴動が頻発していたことがあり、二つには国王ジョージ三世がアメリカ植民地経営に失敗してアメリカ独立戦争を招いたことなどが混乱に拍車をかけました。 

18世紀後半にロンドンで起こったゴードン暴動では死者が五百人を超える惨事となって革命一歩手前だったようです。 さらに加えて海外からの不安定要因がイギリスを脅かし始めます。 1789年に始まったフランス革命は次第に先鋭化していって、ついに1793年には国王を処刑してしまうまでになりました。 このティースプーンが使われていた頃というのは、おっかなびっくり隣国フランスの様子を窺いながら、当時のイギリスはいつ対岸の火事が飛び火してくるか、ひやひやものでありました。 もし英国史がそのコースを少し外していたら、このスプーンを今こうして見ることもなかったかもしれない、などと思ってみたりもするのです。

オールドイングリッシュ パターンについてはアンティーク情報欄にあります「4.イングリッシュ スプーン パターン」の解説記事を、またジョージ三世とデュティーマークについては、 「5.シルバーホールマークとジョージアンの国王たち」解説記事の後半もご参考ください。


二世紀以上前にはティースプーンとして使われた品ですが、全長が13.7センチにボール部分の長さが4.7センチもあり、現代的な感覚からはティースプーンとしてはかなり大きいので、デザートスプーンやジャムスプーンとしてもお使いいただけるでしょう。 また、実際にお茶の席でティースプーンとして見かけると、その存在感が印象的で、裏面のブリティッシュホールマークとあわせて、珍しくて話題性のあるアンティークとなります。

ティースプーンでありながら、21グラムという持ちはかりは、かなりなもので、銀をたっぷり使った重厚なアンティークです。 写真二番目をご覧いただくと、柄先にはライオンの紋章が刻まれております。 立ち姿のライオンが両手で抱えているのは太陽です。 

「ジョージ三世」とあるのは、1760年から1820年までのジョージ三世時代は長かったので、アンティークにおいても、この時代の品には「ジョージ三世...」と接頭辞のように国王の名前を冠することが多いのです。 

英国でアンティークという言葉を厳密な意味で使うと、百年以上の時を経た品物を指します。 気に入った古いものを使っていくうちに、その品が自分の手元で‘アンティーク’になっていくことは、コレクターの喜びとも言えますが、この銀のスプーンが作られたのは1796年ですので、余裕でアンティークのカテゴリーに入るどころか、その二倍の"ダブル"アンティークともなっているわけで、そんな辺りにもアンティークファンとしての楽しみ方がある品と言えましょう。

写真三番目で見て、ホールマーク順に 「George Smith & William Fearn」のメーカーズマーク、ジョージ三世の横顔でデューティーマーク、1796年のデートレター、そしてスターリングシルバーを示すライオンパサントになります。

柄先にホールマークを刻印することをトップマーキングと言いますが、1800年前後にロンドンで作られたティースプーン等の小物シルバーウェアのトップマーキングにおいては、ロンドン レオパード ヘッドの刻印を省略することが当時流行っていました。 このティースプーンにもロンドン アセイオフィス マークがありませんが、同時期に作られたロンドン物ではよく見かける傾向なのです。 おそらくロンドン中心思考がこうした習慣を生んだと思われますが、1830年ぐらいから以降は改まりきっちり刻印されるようになっていきます。

それから、当時の大きな銀工房では、親方のもとで働くジャーニーマン(職人)をたくさん抱えており、銀工房のなかでも誰が作ったかを示す小さな目印、ジャーニーマンズマークをブリティッシュ ホールマークに加えて刻むことがありました。 

写真三番目で柄の中ほどに小さな長方形の刻印が見えますが、これがジャーニーマンズ マークです。 Journeymanは徒弟の上で、マスターの下に位置します。 ジャーニーマンズマークの分析はアンティークシルバーの研究の中でも最前線にあって、この工房の中でどの職人さんの作であったかは残念ながら現状ではまだ分かりませんが、こういうことを調べる専門家がいるというのは、いかにも英国的と思うのです。 

メーカーのGeorge Smith & William Fearnは、ジョージアンの時代にあっては最も有力なパートナーシップとして覚えておいてもよい名前です。

英国シルバーフラットウェアの歴史を紐解くと、1700年代後半から1800年代初めの頃には、有力シルバースミスとして四つのファミリーがありました。 それらはChawner家、Fearn家、Eley家、そしてSmith家の四つのファミリーでした。 彼らは互いに競争しあうと同時に、徒弟制度を通じてお互いに密接に結びついていたので、ある意味ではシルバーギルドの枠内で四ファミリーがもっと大きな大家族を構成していたと考えてよいかも知れません。 と言いますのは、トーマス・チョーナーの下で徒弟として修行を積んだのが、ウィリアム・ファーンやジョージ・スミスであって、長じたウィリアム・ファーンの下で修行をしたのが、ウィリアム・チョーナー二世やウィリアム・イーリーであるといった、徒弟制度上の樹形図で四つのファミリーは結びついていたからなのです。

四つのファミリーは必要に応じてパートナーシップを組んで、メーカーズマークを使い分けており、この品は四大ファミリーのうち、スミス家とファーン家が組んだパートナーシップであったと言うわけです。

写真二番目にあるように、『立ち姿ライオン(=ライオンランパント)』の紋章がハンドエングレービングされているのも、この品の魅力と言えるでしょう。 リースに載った『太陽を抱えるライオン』は繊細な仕上がりなので、手元にルーペがあれば、アンティークを手にする楽しみが増えると思います。

かなり古いスプーンをお求めいただいたお客様から、ジョージアンの時代に銀器を使っていた人たちはどんな人たちだったのかというご質問をいただきました。 遠い昔に銀器を使っていたのは豊かな人たちであったに違いありませんが、この問題はよく考えてみると、もっと奥の深い問題であることが分かります。

ジョージアンの時代に銀器を使っていた人たちは、百年ほど前のヴィクトリアン後期に銀器を持っていた人たちよりも、一段と社会階層が上のお金持ちだったと思われます。 ジョージアンの時代には、まだまだ銀は社会の上層階級の占有物であったからです。 ヴィクトリア期には英国の経済力も大いに伸長したので、ヴィクトリアン後期の英国では銀器が新興富裕層にまで普及し、その裾野が広がりました。 つまり銀器を使った昔のお金持ちといっても、ジョージアンの時代とヴィクトリアンの時代ではその意味合いや程度が大きく異なるのです。

「International Hallmarks on Silver」という本に、過去の銀世界生産量推計という面白い資料がありました。 その資料によれば、写真の銀スプーンが作られた頃の年間銀生産量は460トンほどで、ヴィクトリア時代最後の1900年は5400トンとあります。 時代と共に生産量が十倍以上に増しているわけですが、逆にみると、より昔の時代における銀の希少性について、お分かりいただけるのではないでしょうか。

ジョージアンとヴィクトリアンでは銀のスプーン一本を取ってみても、そのステータスシンボルとしての価値はかなり違っていたわけです。 もっと詳しく知るためには、英国社会史や経済史の理解が不可欠になりましょう。 これからも少しずつ調べて、個々のアンティークが持つ時代背景について、英吉利物屋サイトでお伝えしていければと思っています。

銀の価値を考えているうちに、もしこの銀スプーンを江戸時代にタイムスリップさせたら、いったいどのくらいの価値があったものだろうかと思考実験をしてみました。 当時の英仏独伊といった国々のスタンダードは金銀複本位制で、銀の地金はマネーと等価であり、各国通貨への換算額も容易に計算できます。 ところが、江戸時代の日本では違った貨幣制度が採用されておりましたので、ややこしいところがあります。 

例えば時代劇など見ておりますと、両替商というのが出てきて、しばしば御奉行様と結託しては悪事を働いたりしております。 両替商の仕事といっても、鎖国の江戸時代に、海外旅行用の外貨両替なんてことはありえません。 それでは、この両替商はいったい何を両替していたのでしょうか。 江戸時代の日本では、金貨である小判と、銀貨、そして寛永通宝といった銭、これら三種マネーの交換レートが市場にまかされており、変動相場制になっていました。 極論すれば、ドルとユーロとポンドというレート変動する三通貨が一国の中で流通していたようなもので、そこに両替商の存在意義があったのです。

そんなわけで、写真の銀スプーンは一種の銀地金でありますが、江戸時代のマネーに換算するには、小判か銀貨か銭か、難しさが伴うのです。

ここでは、なるべく簡単な試算ということで、天保一分銀への銀地金換算をしてみましょう。 イギリスでヴィクトリア時代が始まった1837年は、日本では天保8年にあたり、この年から天保一分銀の鋳造が始まっています。 天保一分銀は江戸時代の中でも、特にエポックメイキングな銀貨であって、それがまたヴィクトリアンと重なっていることから、この銀貨について少し詳しくなるのもよいでしょう。

天保一分銀の重さは8.62グラム、銀純度は99%ほぼ純銀でした。 写真のスプーンは重さが21グラムのスターリングシルバーですから、銀の重さは21g*92.5%=19.4gとなります。 そうしますと、銀地金換算で、この銀スプーンは天保一分銀 二枚以上の価値があることになります。 

これを小判で換算すると、一分銀四枚で小判一枚と等価でしたので、このスプーン二本で小判一枚以上の価値となり、当時の国際標準からすると相当な高額物品になってしまうのです。 その理由は徳川幕府の貨幣制度にありました。 幕府は長い年月をかけて銀高金安誘導に成功し、天保一分銀の鋳造をもって、素材に銀を含むことから銀貨ではあることは間違いないけれども、その実態は銀高金安を固定する計数貨幣を完成させたのでした。 

江戸時代の人々は小判と銀貨を使ってはおりましたが、その貨幣制度は「自由な貨幣鋳造」が認められていなかったという点で、金銀複本位制というよりも、むしろ現代の管理通貨制度に近い仕組みでありました。 なお、「自由な貨幣鋳造」とは、人々が造幣局に持ち込んだ金銀の地金を、造幣局が金属的に等価な金貨あるいは銀貨と交換してくれることを意味します。 

最後に、紋章の基礎知識について、少しお話しましょう。 紋章はコート オブ アームズと言うのが一般には正式です。 クレストという言葉もありますが、クレストとは紋章の天辺にある飾りを言います。 紋章の各部分の名称として、例えば英国王室の紋章の両サイドにいるライオンとユニコーンの部分をサポーターと言い、中央の盾状部分をシールドまたはエスカッシャンと言います。 さらに細かく言うと、写真のティースプーンに刻まれた紋章では『立ち姿ライオン(=ライオンランパント)』の下方に棒状の飾りが見えますが、これはクレストの台座であって、リースと呼ばれます。

ただし、紋章のすべてを描いて使うのは、大掛かり過ぎるので、その一部をもって紋章とされることも多く、中紋章とか大紋章という言い方もあります。 しかし、その区別は厳密でないので、紋章の一部をもってコートオブ アームズという言い方をしても差し支えありません。

コート オブ アームズ(=紋章)を使っていた人々とは、どういう階層の人たちであったのか、考えてみました。

コート オブ アームズの体系化や研究は、イギリスにおいて九百年ほどの歴史を持っており、紋章学(Heraldry)は大学以上の高等教育で学ぶ歴史学の一分野となっています。 中世ヨーロッパにおいては、多くの国々に紋章を管理する国家機関がありました。 今ではなくなっているのが普通ですが、面白いことにイギリスでは紋章院がまだ活動を続けています。

今日のイギリスは品のよい国のように見られることが多いですが、歴史を紐解きますと、節操のないことで名高い時代も長くありました。 キャプテン・ドレークは世界を航海して略奪をきわめて、当時の国家予算に匹敵するほどの金銀財宝を奪って帰ってきたので、エリザベス一世から叙勲を受けました。 お金がすべてという傾向は、紋章院においてもあったようです。

紋章学や紋章院の働きについて書かれた本が、『HERALDRY IN ENGLAND』(Anthony Wagner著、Penguin Books、1946年刊)です。

この本によりますと、紋章院が認めてきたコートオブ アームズは四万あるとのこと。
一方で英国の王侯貴族にあたる家柄は千足らずとなっています。

この数字のバランスから分かることは、第一にコートオブ アームズは王侯貴族だけのものではないこと。 第二に、そうは言っても、代々伝わるコートオブ アームズがある家系は、英国の中でも数パーセントに過ぎず、その意味で日本における家紋とはだいぶ違っていること。

産業革命が進行して、新興富裕層が厚くなってきたのがヴィクトリア時代の初め頃になります。 当時の富裕層はコートオブ アームズを求めましたし、また求めれば手に入る性質のものであったようです。

ジョージ三世 スターリングシルバー オールドイングリッシュ パターン ティースプーン with 立ち姿ライオン コート オブ アームズ






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